

日記みたいなものを習慣的に書いていると、書けないなぁとか、書くことないなぁとかいう日が定期的に訪れる。
こういうときって、書くべきことがなにもなかった一日だったというよりも、書くことを拾えなかった自分の方にがっかりしていることが多い。
だってまったく同じスケジュールの二日間でも、体調を崩して寝込んだ二日間でも、すべてが全く同じということはないし、なんなら二日目は「一日目とほとんど同じだった」ということが書ける。
だから書けないときというのは、特別なことがなかったその一日というよりも、なにも拾えなかったなーという自分に対して悔しさがある。
いやいや、でもべつにそんなことを考えなくても、何もなかったなぁーで済ませればいいのだけれど、でもなぜ悔しさがあるのかというと、「一日のなにかを拾って書くこと」に、今日を生きたという実感があるのだろうと思う。
この生きた実感というのは、人によっては誰かと飲みに行くことかもしれないし、なにかに熱狂することかもしれない。そんな多々ある実感の掴みかたの中で、一日を振り返ってなにか拾って書くことに実感を覚える人が、日記を書いているし、続けているのだろう。
そしてこの実感は、たくさんの人に読んでもらえたかとか、内容がおもしろかったかとかの外側にあるものなので、自分で見つけないと実感しにくい。実感を実感するためには、ちょっと時間がかかる。周りからの評価とは違うところを見ないといけない。
そしてそんな実感があるからこそ、書けないときには悔しさと向き合うことにある。
今日も「なにを書こう(くそぅ、悔しさめ)」と思いながら、こんなことを書いた。

今日もお越しいただき、ありがとうございます。書くことがないからこそ書けるものがあったりもする。
| 記念日 | こんにゃくの日 |
| 元号 | 令和8 |
| 和風月名 | 皐月 |
| 二十四節季 | 小満 |
| 七十二候 | 紅花栄 |
| 六曜 | 仏滅 |
| 旧暦 | 4月13日 |

