

文学フリマなどに出ている友だちと話していて、「自分が書いたり作ったりしたものを、知り合いに読まれる恥ずかしさみたいなものはないか」という話題になった。
僕としては「とくにない」というのがすぐに出た返事で、それは別にたいしたものを書いていないという感覚と、作ったものは作ったものであり(それ用のアウトプットであり)、自分のぜんぶだと認識していないからだろうなと、理由をつけた。
逆にいうと、他の人が書いたり作ったりしたものを見たときにも、ぜんぜんその人まるごとを表したものだと思っていないということだし、あくまでその人の一部を見ているという感覚がある。
そう思うと、書いたり作ったりするというのは、それが得意かどうかの手前に、自分のアウトプットをどんなふうに捉えているかという差がある。
(ほら、自撮り写真をとくに気にすることなく、ばんばんSNSにアップできる人もいるじゃないですか。そういう感覚の差です。)
(もちろん、あとから自分で振り返ったときに、「これは恥ずかしい笑」ということはいくらでもある。)
自分がどう見られているのかという感覚は、自分がどう見ているのかという視線の裏返しだなと思う。

今日もお越しいただき、ありがとうございます。作り手(人)と、作られたものの差がはっきりしている派ということかも。
| 記念日 | 小学校記念日 |
| 元号 | 令和8 |
| 和風月名 | 皐月 |
| 二十四節季 | 小満 |
| 七十二候 | 蚕起食桑 |
| 六曜 | 友引 |
| 旧暦 | 4月5日 |

